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- 吹上元康さんは、大学新卒で、平成19年4月東証一部上場会社大庄に入社し、大衆割ぽう店「日本海庄や」石山駅店のキッチン担当として勤務してきたが、同年8月11日急性左心機能不全により24才の若さで死亡した。
発症前の時間外労働は、判決によれば、
発症前1ヵ月目 102時間58分
同 2ヵ月目 115時間41分
同 3ヵ月目 141時間06分
同 4ヵ月目 88時間12分
と、業務と発症との関連が強いとして、原則として業務上と判断される「発症前1ヵ月間に100時間、あるいは発症前2ヵ月間ないし6ヵ月間に月平均80時間の時間外労働」との過労死ラインを大きく上まわるものであった。
大津労基署長はほぼ上記の時間外労働を認めており、被告大庄の不法行為上の注意義務を認め、約8000万円の損害賠償を命じたのは当然の判決だった。
元康さんの過労死はたまたま繁忙期に生じたものではなく、月80時間の時間外労働を前提とした賃金体系と、月100時間を超える時間外労働を容認する36協定(労基法36条に基づく時間外労働等の限度時間についての労使協定)という、会社の労務管理の体制的な問題から生じたものだった。
初任給は19万4500円としながら、その内訳は基本給12万3200円(関西地区の最低賃金を基準)、並びに役割給7万1300円である。役割給の実態は80時間分の時間外労働分の手当であった。80時間に達しないときは順次減額され、時間外労働のないときは最低賃金である基本給のみが支給される、即ち初任給は最低賃金の額であり、正規社員であるのに残業なしにはワーキングプアであった。
その結果、元康さんのみならず、他の社員も過労死ラインを超える時間外労働が常態化していたのである。
弁護団(私と佐藤真奈美弁護士)は、当初会社のみを被告として提訴したが、元康さんの過労死の原因が労務管理体制にあることを重視し、社長の平辰並びに3名の専務取締役も被告として追加提訴した。
会社法429条1項に基づいて、取締役として、社員の労働時間管理体制について故意又は重大な過失があり、取締役個人としての責任があると主張した。
小規模会社の過労死事件で社長に会社法(旧商法266条の3)の責任が認められた判決は大阪では既に数件得ている。
しかし、大企業においてその責任を認めた判決はなかった。
従前の判決は、小規模会社のため社長自らが現場の社員の労働時間等を直接把握している事案である。これに対し、この判決は、「一見して不合理であることが明らかな体制(注;36協定や給与体系)をとっていたのであり、それに基づいて労働者が就労していることを十分に認識し得た」として、その責任を認めている。社内体制構築についての「悪意又は重大な過失」の責任を明確に認めている。
過労死事件で、会社の損害賠償責任が認められてもトップは痛痒を感じず、職場の内部の過労死への規制力たる労働組合が弱い下では、その後の労務管理体制が改善されないことも少なくなかった。
この判決は、会社のコンプライアンスの一環としての労務コンプライアンスの重要性と、それに対するトップの責任を認めたものであり、過労死防止の視点からも画期的な判決と言えよう。
- はじめに
5月19日、アスベスト被害について国の責任を初めて認める判決が言い渡された(判決の内容と意義は、先月号・谷真介会員報告参照)。判決後2週間、原告団・弁護団・支援団体(勝たせる会)は、上京して国に控訴断念と早期解決を求める闘いを展開した。
控訴断念まで後一歩まで国を追い詰めた2週間の闘いは、まさに総力戦であった。
- 判決前の行動
大阪泉南訴訟というローカルな事件を、全国・東京で知らしめ、判決後の行動で国を追い詰めることができたのは、ひとえに判決前の仕込み(準備行動)を徹底したことによる。
原告団、弁護団、勝たせる会は、30万署名を達成するため1年前から東京の労働組合、民主団体のオルグ活動に回った。全国から集まった署名は36万筆に上った。毎週の裁判所前宣伝行動に併せて署名提出行動を行い、裁判官に事件の社会的関心の高さを十分に意識させることができた。今年に入ってからは判決前まで、第1次から第4次まで東京行動を展開し、判決当日と判決後の東京行動の参加要請のオルグに入った。また、与党民主党のアスベスト対策推進議員連盟に働きかけ泉南被害者からのヒアリング、超党派の国会議員による判決前の院内集会を開催するなどロビー活動を継続的に展開した。さらに、東京のマスコミにも折りに触れて大阪泉南訴訟をレクチャーした。判決後の東京行動を入念に計画、準備をしたうえ判決当日を迎えた。
- 判決後の要請行動
判決日当日(5月19日)、原告団・弁護団は二手に分かれ、大阪での500名規模の判決報告集会と同時並行して、東京でも100名(うち国会議員36名参加)の院内集会を成功させた。
判決翌日(5月20日)は、雨中の厚労省前で1300人が早期解決を求める請願行動、午後に社文会館で900名の控訴断念を求める集会を開催した。東京のマスコミ各社も、判決翌日朝刊の一面で泉南訴訟判決を報じ、朝日、読売、毎日新聞は早期救済を求める社説を掲載するなど大きな関心をよんだ。原告団、弁護団は、厚労大臣、環境大臣に面談を申し入れ、連日、厚生労働省前、議員会館前、首相官邸前で、控訴断念を求める宣伝行動を展開した。また、各政党本部、アスベスト対策推進議員連盟へ早期解決に向けた要請行動を行った。
一日の行動が終わるとじん肺弁連の事務所に集まり、情勢分析と今後の行動の点検、翌日配布用のビラ(国会通信)を作成・印刷した。
宣伝行動では、原告、弁護団、支援者が次から次へとマイクを握った。普段の宣伝行動ではマイクを握ったことのない原告や若手弁護士も、自分の言葉で堂々と、聞く者の心に響く訴えをした。
私の心に残っているのは、早朝宣伝行動での、ある原告の訴えである。雨が降る中カッパを着たその原告は、厚労省の建物を見上げて、トツトツと訴えた。その人は、44年間石綿工場で働き、石綿肺と合併症を患い、同じく石綿工場で働いていた夫を胸の病気で43歳で亡くしている。「私は、生まれて初めて新幹線に乗って東京に出てきました。私が、石綿のほこりまみれになって作った石綿の糸や布が、自動車や船や色々なものに使われ、国にはたくさんの財産ができました。でも、私に残されたものは、夫の遺影と私の肺に突き刺さったアスベストだけなんです。息苦しくて毎日々、眠れません。一緒に働いた人はエビのように体を反らして苦しみながら次々と死んでいきました。お国のえらいさんたち、時間がないんです。私たちを見捨てないで下さい。ちょっとでも早く救って下さい」。厚労省へ入ろうとする役人達が立ち止まり、じっと訴えに耳を傾けていた。次にマイクを渡された私は、涙が溢れてきて声が出なかった。原告被害者の訴えは、人の心を動かす力をもっている。それにしてもなんと、赤裸々な石綿被害と国民の命・健康より経済発展を優先させた国の責任の本質を突いたをついた訴えであろうか。
- 厚労大臣控訴断念表明と一転控訴へ
判決から1週間が経過しても、厚労大臣との面談は実現しなかった。5月26日、厚労省前で500人規模のデモ行進をした。そして、その日の夜に厚労省前の日比谷公園に「解決要求テント」を設置し、若手弁護士が中心に泊まり込んだ。このあたりから風向きが変わった。国会議員、支援団体、通行人など次から次へのテントに激励の声が寄せられた。夜、宣伝行動を終えたときに、厚労省の窓から職員の手が振られたという。地元の泉南、阪南市長、大阪府知事からの早期解決の要請が出された。世論は控訴断念へ大きく動いた。ついに、5月28日の新聞で、長妻厚労大臣が控訴断念の意向を表明し、小沢環境大臣も同調したと報じられた。原告団、弁護団内に鳩山総理が控訴断念を最終決断するとの期待が一挙に高まった。
しかし、他の訴訟への影響を懸念する政府内の異論も出始めた。5月31日の深夜、弁護団は、じん肺弁連事務所で関係閣僚会議の最終決定の報を待っていた。そこへ、鳩山総理が仙石国家戦略相に対応を一任し、同大臣が控訴を決定したとの連絡が入った。弁護団は、午前3時までかかって抗議声明を作り、早朝から首相官邸前で「鳩山さん、これが命を守る政治ですか」と口々に抗議した。6月1日、夕方、テント撤収式を行った。2週間にわたる東京行動を総括し、支援者にお礼を述べた。翌6月2日、原告側も控訴した。その日の早朝、鳩山総理は政治的リーダーシップを発揮することなく辞任した。私は、「同じ辞めるなら、控訴断念をし、これこそ命を守る政治だと国民に示してからにしてほしかった」と記者会見で話した。
- 最後に
本当にやれることはやりきった2週間であった。大きな戦略を持ち、戦術を工夫し、当たり前のことを率直に訴えれば、政治や世論を大きく動かすことができるということを参加者一人一人が肌で体験できた。
他方、国の控訴は、司法判断を踏みにじり、いたずらに被害者の苦しみを引き延ばす極めて不当なものである。「私が生きているうちに解決するのか」、「何人死ねば解決してくれるのか」というのが、原告らの偽らざる心境である。水俣病は、国が上訴を繰り返したため、国の責任を認めた司法判断から23年が経過した現在も完全に解決していない。国に、同じ過ちを繰り返かえさせてはいけない。
今回、控訴断念から控訴へと揺れた政府の対応が、霞ヶ関周辺で「ミニ普天間問題」と揶揄されているという。マスコミは、原告団を大きく落胆させたと報じた。しかし、原告団、弁護団は、意気消沈していない。不当控訴に対する怒りでいっぱいであり、法廷内外で「命あるうちの早期全面解決」を求めて闘い抜く決意である。
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