弁護士 大江 洋一
労働法律旬報1972号『特集片岡労働法理論の意義と継承』が発行され、久しぶりに労働法律旬報を開いた。巻頭論文は、当然筆頭弟子と目される西谷敏さんである。
以前お目にかかったとき、片岡さんの追悼文を執筆しているが、なかなか大変だ、ということを耳にしていたものの、簡単なものだろうとの予想に反し、「プロレーバー労働法学」というタームを素材としつつ片岡先生の生きられた戦後労働法学全体を鳥瞰して、その総括を試みたもので、質・量ともに歴とした大論文なのである。
プロレーバー労働法学といっても今の若い人には馴染みがないであろうが、労働弁護士の片割れであった私にとっては、労働者を擁護する立場を鮮明にした戦後労働法学の主流に対する、使用者側の利益を忖度しつつ「中立的」な立場を取り繕った立場からの揶揄・レッテルだという程度の認識しかなかった。
しかし、読み進む中で、戦後労働法学においては「プロレーバー」とは労働法学者の基本的な立場をあらわす意味をもっており、そのことを通じて、戦後労働法学全体を俯瞰した総括であることが分かってきた。そこでその梗概を紹介しようと試みたが、読み直してそれは諦めた。とても非才な門外漢の私にはこれを要約することなどできないので、直接読んでいただくしかない。
しかも、戦後労働法学を切り開き、発展させて来られた恩師に対する愛弟子からの挽歌であるとともに、西谷さん自身の学者人生の締めくくりという意味をもつ論文であると位置づけるべきものであろう。いつもの如く明快に労働法学の戦後史を学ばせてもらった。「理念としてのプロレーバー」に私も賛同する。
労働弁護士として実務についたころは、集団的労使関係事件に専ら取り組み、準備書面にも、「原告らは階級的・民主的な立場を貫き、労使協調路線に対抗して…」というようなことを誇らしげに書き連ねていた。しかし、しばらくして、イデオロギー過剰な独りよがりのこのような主張が果たして裁判官に訴える力をもっているのだろうか、という疑問を抱き始め、それからは、まず克明に証拠を示して事実を明らかにしたうえで、憲法と労働法に則りその是非の判断を裁判所に迫る、という姿勢を専らにしてきたこととつながる問題意識だといえよう。
大阪では民法協の労働法研究会には、いつも片岡、本多両先生以下、西谷さんら若手のお弟子さんたちが多く参加され、合宿では昼間のかんかんがくがくたる議論と、夜の宴会後には片岡・本多囲碁対決の傍らで無礼講を繰り広げた懇親など、実に身近にその謦咳に接することができたことは私たちにとって実に幸せな経験だったが、あれも片岡先生の「法形成的実践」の一環だったのだろう。
新米当時にかかわったユニオン・ショップ協定の効力が問われた事件(三菱製紙ユ・シ解雇事件)では、労働者が歴史的に勝ち取ってきた協定が自覚的労働者に向かって牙を剥くことを思い知る中で、「団結権優位」の思想にもなんとはなく疑問を感じ始めたこと、そういう中で西谷さんの『個人と集団』に思わず快哉を叫んだことが思い出される。
誠実であるからこそ時代の変遷の中で新たな矛盾に理論的にどう対応するか悩み抜かれていた片岡先生は、正面から投げかけてくる愛弟子からの自説に対する批判的な意見をも包み込むような態度を示されていたこと(それは、愛弟子の成長を喜ぶとともに、その若さゆえに自由に発想できる姿に対する羨望、憧憬をも含んでいたように感じられた)などが回顧される。そういえば、本多先生は何度か、『弁護士さんと違って学者は過去を背負っているから…』ということを口にしておられたことをふと思い出した。世代が違えば時代も変わるのであり、学説も変化せざるを得ないし、そうでなければ発展はないのであるが、片岡先生や本多先生らと西谷さんを通底しているのは、脈々たる憲法と労働法の体系への信念であり、労働者への暖かいまなざしであり、その点でしっかりとつながっていることがそこここに読み取れた。そこには、理想的な師弟関係が形成されていたと思うし、また片岡学説へのこのような「批判」は、西谷さんでなければ書けなかったのではないかと思えるのである。
「中立性」の議論における菅野さんらへの反論も、批判を正しく理解したうえで的確になされており、批判や再批判はこうあるべきとの感を改めて強くした。
片岡先生の「連帯への熱い思い」への共感を共にしたうえでの肯定的批判をしつつ、誤ったあるいは筋違いの批判には毅然とした反論も過不足なく示されており、締めくくりの言葉など、師弟関係の一つの理想形が示されており、そのことがなによりの片岡先生へのはなむけだと感じられた。暖かい追悼文であった。