民主法律時報

Q:がんばらない職員との処遇の格差は当たり前?

Q:がんばっている職員を厚遇し、がんばらない職員と処遇の差をつけるのは、当然ではないでしょうか。

A:一般論としては、「がんばっている職員」、すなわち、努力をし、能力を発揮している職員には厚遇をもって遇する、というのは、いかにも真っ当に聞こえます。
 では、何をもって、「がんばっている」と評価するのでしょうか。
 条例案では、「業務目標」を定め、その目標を達成したかどうかを最大の指標とするようです。
しかし、公務とは、住民の多様なニーズに応えるためのものであり、「業務目標」を定めることに適していません。むしろ、業務目標を定めることで、とにかく目標を達成することが第一義となってしまい、他の住民サービスをおろそかにしたり、新たに生じたニーズに対応することを後回しにしたりという、硬直的な運営がなされるおそれもあります。
 このように考えると、「目標」を定めること自体が適切でないのに、その目標を達成したからといって高い評価を与えることには、合理性が見いだせません。
 また、この条例案の全文では、この条例が、「都市間競争」を勝ち抜くための「地域経営モデル」として打ち出されたことが掲げられています。
 しかし、大阪府は、どこかの都市と競争しているのでしょうか。大阪府の職員は、他の自治体との競争を勝ち抜き、他の自治体を蹴落とすために日々仕事をしているとでも言うのでしょうか。
 そもそも、地方自治はなぜ存在し、わざわざ憲法が1章を割いて定めているのでしょう。それは、住民の意向を地域行政に反映し、きめ細かな住民サービスによって地域住民の福祉を増進するためというのが、一つの大きな理由です。国家単位では、きめ細かい住民サービスを行ったり、また、住民の意向をくみ上げたりすることができない場合もあるため、地方公共団体というより小さな単位に行政運営を委ねているのです。
 条例案は、このような憲法の想定とは全く異なり、住民の意向など無視してとにかく「競争」をあおり、「競争」に勝ち抜こうとしています。
 そして、何をもって「競争」の対象とし、「勝ち」とするかは、その時々の知事の意向に左右されることになりますから、この条例案の下では、公務や公務員の私物化を許すことになることは明白です。
 さらに、職員の評価をするのは、あくまで人間です。客観性のある基準を規則で定めることにはなっていますが、どのような基準を設けたとしても、運用するのが人間である以上、公平公正な評価がなされるかということについては、慎重な吟味が必要です。
 とりわけ、条例案では、任命権者と任命権者が指定した職員のみが評価権者とされているため、少数で大量の職員を評価することになります。したがって、評価をする者としては、個々の職員の業務ぶりを日々観察しているわけにはいきませんから、評価に当たって中心に据えられるのは、職員自身による自己評価と、3回の面談ということになります。このように、評価権者は、極めて限られた情報により評価をなさざるを得ません。にもかかわらず、個々の職員に対する5段階評価、しかも、各ランクの割合が定められた上でのランク付けを強いられているのです。
このような制度下においては、評価の公正は疑わしいと言わざるを得ません。
 また、「処遇の差」についても、期末手当及び勤勉手当について「明確な差異が生じる」ようにしたり、D評価を2回受けると地位を失いかねないなど、毎年の評価が職員の生活に大きな打撃を与えかねず、本当に、上司らの評価によってそこまでの差がつくことが、「当然」なのでしょうか。
 これらの点について、地方公務員法は、24条1項で「職員の給与は、その職務と責任に応ずるものでなければならない」とし、40条では、職員に対し、任命権者による勤務評定を行うことが定められています。条例案は、「地方公共団体の行政の民主的かつ能率的な運営」を定めた地方公務員法のこれらの規定を無視し、地方公務員法をはるかに凌ぐ激烈な競争主義・成果主義を持ち込むものといえます。

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