民主法律時報

「守り」の運動から「攻め」の運動へ

島根大学名誉教授 遠 藤 昇 三

民法協の運動を念頭に置きつつ、日本社会において今求められている運動の構え方について、少し発言したいと思います。運動の構え方と言ってもいろいろありますが、今回のテーマは、その中でも表題の角度からの問題提起です。なお、それぞれの運動が同時に他の運動の意義を担うことは、考慮にありますが、ここでは分けて考えます(またこれは、『民主法律』313号掲載の「現代における権利闘争の発展のために」で述べた「消極的権利闘争と積極的権利闘争の区別」を、敷衍したものでもあります)。

「守り」の運動とは、政府・大企業等からの攻撃そしてそれにより受ける不利益等に対して、それを跳ね返して元の状態に戻す運動を、指します。より身近な例で言えば、企業から不当・違法に解雇された場合、その解雇を撤回させるために、労働組合としての運動を展開する、また必要があれば法廷闘争を行うといったことです。この場合、(この運動の過程で、労働組合が量的・質的に強化されたり、市民運動や世論を味方に出来たとしても)そこで得られるのは、解雇がなかった元の状態の獲得(原状復帰)に過ぎません。他方、「攻め」の運動とは、上の例で言えば、解雇撤回・原職復帰に留まらず、解雇を行った企業の謝罪・反省の獲得、そして二度と同じような解雇を行わせないための諸措置(例えば、解雇には正当事由が必要であること、またこれまで以上に厳格な手続きを、就業規則で定めさせるとか、形式的な原職復帰ではなく実質的な原職復帰とするための条件整備をさせること〈少し余分なことですが、これらの点については拙著『労働保護法論』日本評論社、2012年第6章第4節4を参照して下さい〉)により、労使関係の様々な改善を図る、といったことです。即ち比喩的に言えば、「守り」の運動が、例えばマイナス5をゼロまで戻すのに対し、「攻め」の運動は、ゼロを超えたプラスαを獲得するということです。

なぜこうした問題提起をするのか、私の問題意識は以下の通りです。戦後日本における労働組合運動を初めとする民主主義運動は、ほとんど政府・大企業等による攻撃に対する防衛・防御として展開され、現状の改革・改善としての積極的な運動(典型的には立法闘争)は、大変少ない状況でした。例えば憲法に関して言えば、9条を中心とするその改悪は、今日まで阻止出来ましたが、憲法を実質的に具体化する点では、不十分でした。それは、両者の力関係の反映という客観的な要因によるでしょうが、主体の側における、創造的な「攻め」の運動への問題意識の乏しさ、にもよると思います。こうした状況は、今日においても十分には克服されていない、その克服こそが今日の最も重大な課題である、と思うからです。

ではどのようにすべきでしょうか。さしあたり、時間軸の両方向から考えてみます。それは、一方では、実現・達成されるべき将来社会像を描き、それに向けた運動を多様に展開する、一つ一つの運動を、将来社会像から逆算して、そこにつながるように構築することです。こう言うと簡単なように見えますが、二つの難しい問題・課題があります。一つは、全ての人々において将来社会像が一致するのか、同じなのかについて言えば、そうとは言えないでしょうし、そもそも将来社会像が描けるかと言うと、そんなに簡単ではないとも思います。この場合、将来社会像を描くこと、一致したそれを描くことに努力すべきなのは当然ですが、出来ないとしても、「攻め」の運動を放棄すべきではありません。現状より少しでもましな社会にすることについては、大方の異論はないでしょうから、それに向けた運動の展開が、可能と思います。もう一つは、将来社会像についての一致があるとして、その実現・達成のプロセス(方策・道・やり方)が、多様でありうることです。どのようなプロセスを採用するかについて合意がない場合、運動主体が、それぞれ別のプロセスを追求することになりますが、それでは、「攻め」の運動としては、力の弱いものにならざるをえません。そこで求められるのは、プロセスを一つにするための様々な妥協を含む努力です。

もう一方では、将来社会像の形成・一致がないとして、現在の「攻め」の運動の展開の中で、将来社会像の形成・一致を図ることです。それは、当面の「攻め」の運動の目標が達成されるあるいはされないの如何を問わず、そこに留まらず、その運動の中で将来社会像を模索する、また将来社会像につながるために、運動の水準の引き上げを行うことです。

もう一つ提起したいのは、既に述べた日本の戦後民主主義運動の負の遺産の総括・反省を行うことです。これを欠いても「攻め」の運動が全く出来ないという訳ではない、とは思います。しかし、その運動の強靱性や信頼性を得られない、従って大きな成功を収められないのではないか、と思います。何故なら、負の過去を克服しない運動は、再び同じ轍を踏む可能性が高いからです。勿論、総括・反省が出来てから「攻め」の運動に取り組むといった、順序をたどる必要はありませんが、「攻め」の運動の中で、常にそのことが意識され、少しでも前進させるべきです。

民主法律時報アーカイブ

アーカイブ
PAGE TOP