民主法律時報

ファシズムの危機

弁護士 大 江 洋 一

 私も自治労連弁護団の立場で組合事務所使用不許可処分等の事件を担当しているが、それまでは橋下市長のことを、ノックの延長線でマスコミにもてはやされて有頂天になって新自由主義のお先棒を担いでいるという程度の認識に留まっていた。しかし、アンケート問題が発生して、その質問事項と橋下市長の回答指示文書を一読して衝撃を受けた。人の心の中まで土足で入り込んで心の底まで支配しようとしている。それを職務命令をもって懲戒処分の脅しのもとに強制しようとしている。市の職員たちは、回答を拒否したら家族を路頭に迷わせかねないと深刻に思い悩んでいた。「あの時代」がフラッシュバックした。

 どうみてもこれはナチズムではないのか。しかし、書かれたものは「ポピュリズム」を云々するだけで、正面からファシズムを論じるものは寡聞にして見当たらない。身近な何人かの人に訴えかけても「ファシズムの定義は難しく学者の間でも一定していない」「変にレッテル貼りになってはかえって反発を買うだけだ」というような答えが返ってくるばかりでどうにも反応が鈍いのである。「それは違う!」と歯ぎしりしながら、ファシズム論の古典的名著と言われる山口定氏の「ファシズム」(岩波現代文庫)を読んでみた。

 出版当時の時代背景があったからだと思われるが、確かに同氏は随所で「レッテル貼り」になることには慎重姿勢を示しているが、さまざまなファシズム論説を吟味しながら氏のファシズム論を展開しており、私の『維新ファシズム論』は直感から確信になった。

 紙数の関係で祥細な内容紹介はできないので、関心のある方は直接お読みいただきたいが、山口氏は、ファシズムの基盤となった社会状況を「支配イデオロギーの危機・支配層内部における統一的意思形成の破綻、既成支配層の腐敗や失政の連続、社会主義運動が期待された変革の実現に失敗して大衆の幻滅を一挙に拡大、労働運動が社会的に孤立したまま不毛な突撃を繰り返す」と指摘するが(最近注目されているカール・ポランニ―の時代分析も一致している)、これは現在の社会状況と瓜二つではないか。

 山口氏が定義づけるファシズムの特性は「『指導者原理』を組織原理とし、制服を着用した武装組織を党組織の不可欠の要素として、街頭の暴力支配と示威行進・大衆集会とを結合した運動を展開する政治的大衆運動」というものだが、橋下市政の手口をみると、これを充分に備えている。直接的な「暴力」ではないものの、マスコミやインターネットを通じてさまざまな「恫喝」を加えるなど「街頭の政治的大衆運動」は新たな現代的装いをもって進められている(氏は、今後ファッショ化の動きが進むとしたら「管理ファシズム」的性格を一段と強くしたものとなるだろうと補説の中で指摘している)。主たる基盤を中間的諸階層に見出し、さまざまなタイプの社会からの「脱落者」集団を集めているという点まで同じである。

 橋下市長は「選挙で多数を得て選ばれた自分が全てを判断する。公務員は一切個人の判断を加えてはならず無条件に服従して実行するだけだ」と広言し、職員基本条例、政治活動規制条例、労使関係条例に現実化した。ナチスの『指導者原理』そのものである。とりあえずは大阪市の行政内部の問題に限定されているように見えるが、「彼らの運動が勝利したあとには、その政治社会全体に押し広げられた組織原理」となるであろう。ナチスが初議席をえてから5年を経ずして政権を奪取し、その後一気に世界を悲惨な戦争と殺戮に引きずり込んだ歴史的経験を想起されたい。それは「構成員に対して『個人』の立場を徹底的に放棄することを要求する」に至る。そして、至ってからでは遅い!のだ。

 美辞麗句を連ねた『維新八策』への内容的批判は各方面からなされているが、「ファシズムの思想には体系性などはなく、自己の勢力を強化したり、権力の確立・維持という目的のために大衆の支持を調達する必要から、訴えかける対象により、またその時々の状況に応じてもっとも好都合な思想が動員されるに過ぎない」というムッソリーニの率直な吐露を念頭に置いて考える必要があろう。原発再稼働をめぐる橋下市長の変節が示すように、いつ豹変するか分からない政策的美辞麗句であることを念頭においておく必要がある。

 最も注意すべきは、橋下市長の姿勢が、「ただ無制限な、あつかましい、一方的頑固さによってのみ宣伝は成功する」「もっとも簡単な概念を何千回も繰り返すことだけが、結局は覚えさせることができるのである」(『わが闘争』)などとオーバーラップして見えることである。無理を承知で言いたい放題まくしたて、攻撃する相手の失態には一切容赦ない一方で、自分の失態には極めて寛大であることも見逃せない。道義的な退廃というほかない。

 現状はあくまで大阪という地方に限られた現象ではあるが、全国的に『橋下首相』待望論がもてはやされる現状からみて、「厳密な意味での「ファシズム」には入らないが、すでにファシズムの諸特徴のいくつかを萌芽的に示しているか、それともそれ自体として顕著なファッショ化の道を歩み始めており、そこからやがて本物のファシズムの運動が分離・独立することになるような、しかも場合によっては極めて強大な力をもった運動体があちこちに見出された。それはさまざまの由来、背景をもっており、これを「前ファシズム」と呼ぶことにしたい。」との氏の指摘がそのまま今にあてはまるのではないか。

 私はひたすら恐怖心を煽ったりレッテルを貼るつもりで書いているのではない。私は、かなりの人々が漠然とした期待を持ち、ファシズムの危険を見ようとしていないからこそ、心ある人々には橋下市政と維新が現下の政治情勢の中で(前)ファシズムの特質を備えていることを正確に認識してほしいだけである。思い過しであったと後で笑えれば幸せである。

 ではどうすればいいのか。同じ社会状況であった同時代のイギリスその他民主主義システムが進んだ国々はファッショ化していない。司法や官僚やマスコミの中からでも最近は一定の批判論調が生まれ始めている。書店の店頭でも「橋下」批判の書物も目につくようになってきている。あまりのひどさに「大阪のおばちゃん」たちにも戸惑いが出始めた。反原発デモも民主主義の根付きを思わせる新しい動向である。そして何よりも頼もしかったのは、涙ながらに家庭や職場で苦しみ悩み励ましあうなかで、ついに思想調査アンケート損害賠償請求訴訟に踏み切った55人もの人々が、実に輝かしい笑顔で決意を語ってくれたことである。試練は人を磨き上げる。ファシズムが反ファシズムを育んだのだ。ここに進むべき道が示されているのではなかろうか。

 もう一度言うが、今の事態はたんなる人心収攬のための「ポピュリズム」ではない。
 そして、反ファッショの大同団結が必要なときである。

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